『暴力の歴史』オスター・マイヤー メッセージ
東京芸術祭での公演は逃してしまいましたが、シャウビューネ劇場の芸術監督であり演出家のオスター・マイアー氏のすばらしいメッセージ動画をみつけたのでポストしておきます。
最近ツイッターにも書いたんだけど、あいちトリエンナーレにおける『表現の不自由展・その後』を批判する際に、「わたし」ではなく「日本人として」傷ついたという言葉や「日本人が傷つけられた」という言葉がとても気になっていて、というより、日本人だけど傷ついていない「わたし」がここにいるのに、勝手に人の主語をとらないでくれよと憤りも感じていた。
政府や国家という大きな物語に個人が身をゆだねていくこと、知らぬ間に巻き込まれていくことの怖さが、いつの時代にも存在する。
彼らの主張と対峙するためには、「個人主義」ではない「個人の物語」の回復、「ナラティブ」の復権が必要ではないか。
奇しくもこのメッセージ動画で、オスター・マイアー氏が「ナラティブ」について語っていたのでつい見入ってしまった。
▷作品詳細
エドゥアールから話がありました、自作をドイツで紹介したいと。
それはある出版社の企画で、彼と一緒に小説をドイツの読者に紹介する仕事をしました。
それ以来『暴力の歴史』の舞台化を進めてきました。
エドゥアールは稽古にも来てくれました。
こちらの要求にこたえて、長い対話を短くしたり、長い散文を対話にしたいところも、稽古につきあって対話を書いてくれました。
私は感じていました、小説から舞台の言葉を作り出すのはそれほど難しくはないだろうと。
というのも、小説の主たるテーマはナラティブをコントロールするのは誰かという闘争だからです。
これはきわめて過激なテーマです。集団やグループの闘いという社会現象の表現なのです。
私たちの社会を貫く現象です。
排他的民族主義と、こうした現象の犠牲者たち、そして、さらに特定の移民グループさえもが… 内部でさらに排他的民族主義的であったり同性愛憎悪だったりするのです。
小説が語るのは、こういう世界です。それがこの小説に惹きつけられる理由の一つです。
もうひとつの魅力の理由はフォルム(形式)です。
フォルム(形式)にとても挑発されるのを感じます。
とくに演出家として挑発されます。
複雑で上演するのがとても難しい。
織物をテクストに仕上げるのが、これほど面白く聞こえてくるとは。
そうした面白さに挑発されました。
私にはとても現代的、同時代的で物語の手法に感じられます。
というのも、粉々に砕かれ、直線的な時間から逸脱してしまった遊戯のための遊戯のフォルム(形式)だけでなく、主人公エドゥアールの心の状態とトラウマが表現されているからです。
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