多様性と複数性/日常の連続のなかで

江之子島文化芸術創造センター(enoco)で開催された、

アートはひとりでは生きられない ー協創・参加・対話の現場からー

創造のテーブル2020

というイベントに参加した際のメモを起こします。

※あくまで個人的なメモですので、発言者の趣旨と異なる場合があります。

それぞれの実践がめちゃエキサイティングで勉強になるフォーラムで、自分自身がアップデートされました。


登壇者は4名。

まずは、韓国で様々なストリート・アート・フェスティバルの芸術監督を務めてこられたキム・ジョンソクさん。

Ansan Street Arts Festival 芸術監督(2010〜2011)、Hi Seoul Festival芸術監督(2013〜2015)、Seoul Street Art Festival芸術監督(2016〜2018)、Gwacheon Festival芸術監督(2019〜)と韓国国内で様々なアート・フェスティバルを手がけてこられた経験から、着任時には必ず「都市それぞれの物語」に着目し、仕事をはじめる前にリサーチを行う。

余談だが、このフォーラムのために前日から来日し、大阪のリバー・クルーズにも参加してきたそうだ。

その土地の記憶や、そこで生きる人々につねに意識が向いているのだろう。

リサーチする際のテーマは、そこにどのような人が住み、そこで何を共有できるか、人々がそこでどんな夢を見ているか。

そして自分は、それらをつなげるための「橋」の役割を果たすのだ、とも。


そのためには平和的に人々が集まり、そして散っていく空間が必要で、それが「フェスティバル空間」なのだと位置付けている。

このことに気づいたのが2002年のサッカー・ワールカップのときで、民主化運動(1987年)ーサッカーワールドカップ(2002年)ーキャンドル革命(2016〜18年)の経験からこのことを学んだ。

いずれの場合も光化門を埋め尽くすほどの人々が集まり、そこで人々が交流し、運動をさらに高めていった。


また、大規模なアートイベントであるにも関わらず、ソウルのフェスは政府主導ではなく市民の自発的な動きによってつくられていることも大事な点。

アート・フェスティバルは、日常と非日常をつなげる橋であり、境目をぼかす(自分にも何かできるのではと思わす)役割があり、異分野共同の場でもある。


大事にしている考えは、

・Collective Togetherness(様々な立場の人が集まって声を上げる/自分の思いを持って集まる)

・Sharing Identity(アイデンティティの共有)

・Re-Discovering of Life(人生を再発見する)

・Challenge for Change(変化に挑戦する)

 ーArtistic Experience(芸術的体験)


フェスの観客もデモの参加者も一人一人別の人間。そんな一人一人の意識をほんの少しずつ変えていくことが、芸術の役割だ。

フェスティバル(祭典)というのは一般的には日常からの脱出と理解されるが、日常からの逃避は理論家の話であり、大事なことは「日常に立ち返ること」であり、「日常を再発見すること」だ、と。

日常から逃避するような芸術は、市民にとって意味を持たない。

土地の歴史や記憶に立脚し、人々が自発的に集まることを大切にしている。

自分のようなヨソ者が来ることで再発見されることもあり、現実と幻想をつなげることが芸術の役割だ。


フェスティバルの大枠を考える際に、「想像力と発見」①(自分も含めた)人々が望むものを想像しよう、②隠された問題を想像しよう(ニュースにも報道されない、声にもなっていないもの)、③空間と時間を想像しようという3点を軸にしている。

会場がストリートであるためド派手な演出の作品も多いが、ソウル・ストリート・アート・フェスティバルでは、同地で深刻なー老人の問題、若者、就職の問題を扱った「社会的な」作品も多くみることができるそうで、言語化されないまま、暗黙のうちに共有されている問題を扱うことも意識しているとのこと。

ソウル・ストリートアート・フェスティバル 2018年アフタームービー


映像を見るとお金のかけ方が違うなと思うが、ソウルのフェスの場合は18億ウォン(!)とのことで、これはほとんどが自治体の税金によるとのこと。

なぜ入場料を無料しているかと言うと、「先に税金をいただいている」から(この考え、日本でも広めたい)。

市が予算を削ったり、ディレクターを変えられることもあったり、そのことで市民と争うこともあるとのことで、こうした現状でどうフェスティバルをオーガナイズしていくかいつも悩んでいるそうだ。


現在芸術監督を務めているGwacheon Festival(果川市)は、市長が変わったことによってフェスが中止になったことがあったが、それが市民の怒りを買った。

Gwacheon Festivalは約20年続けられてきたフェスであり、同地の人々はフェスの楽しさ、その楽しみ方を知っているからだ。

そこで市民の声に後押しされ、「また新たにはじめよう」というテーマでフェスを復活させることができた。


次に、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(Socially Engaged Art/SEA)の研究・実践、アーティストの支援などを行う清水裕子さん(NPO法人アート&ソサイエティ研究センター副代表理事)の発言。

SEAという言葉はどこかで聞いたことのあるような気もしていたが、話を聞いて、いま自分がやりたいと思っていることにピタリとハマるものだと気づいた。

そこでようやく、漠然と考えていたものが言葉になった。「アートに政治を持ち込むな」とよく言われるが、わたしがやりたいことは、「政治にアートを持ち込む」(政治にこそアーティスティックな想像と創造が必要)こと。


『SEAー社会に深く関わる参加型の芸術実践』

SEAは1960年代にはじまったと言われている取り組みで、アートワールドの閉じられた世界から脱して現実の世界に積極的に関わり、日常から既存の制度にアプローチするもの。

社会の課題を認識して何らかの解決を目指すものであり、テーマは多様。

海外では社会の課題を具体的に取り上げ、問題に踏み込んだプロジェクトが多いが、日本の場合はコミュニティの再構築や、コミュニケーションのあり方を捉えたプロジェクトが多いという違いがある。

(その違いは優劣ではなく、どちらのアプローチもありだよね、と)


SEAは、「社会的課題に応えるための参加型アート」として、一人一人が抱えている課題がポリティカルなことだよと伝え、どうオルタナティブを見つけていくか。

資本主義的メディアに冒され、受動的になっている人間を変えたいとも。

作品が商品化されていることへの危惧、既成概念に疑義を唱えるため、時代ごとに対応してきたものがSEA。

ここで紹介されたプロジェクトが、公園へのマンション建設反対運動をアーティスティックな活動で食い止めたクリストフ・シェーファー他による「パーク・フィクション」(ハンブルグ)や、ペドロ・レイエス「銃を楽器に」(メキシコ)、そして高山明「マクドナルド放送大学」(初出はフランクフルト)。


◎パーク・フィクションは、このプロジェクトに取り組んだアーティストのインタビュー記事がおもしろいので興味ある方はぜひお読みください。

反発から創造へ、自分たちのほしい「公園」ができるまで。 住民主導のACT×ART「パーク・フィクション」ーgreenz


◎ここで紹介されたわけではないが、関連して。ドイツ博物館で行われた企画展を、日本科学未来館が日本へ持ってきたもの。

どうする?エネルギー大転換


たとえばマンション建設反対運動の場合、通常の「ポリティカルな」運動ならば、署名を集めたりビラを配るなどの宣伝を行ったりといったものになるが、アーティストが活動に参画することで、公園を使って地域住民に開けたイベントやワークショップなどを開催し、その公園が地域住民にとっていかに大切な場所かーくつろいだり、散歩したり、集まったりーということを可視化することでその公園の必要性を認めさせ、結果、マンション建設を撤回することができたそう。

社会課題全てにあてはまるとは言わないが、こういった視点による活動も重要だろう。何より、エキサイティングだ。

反対に、アーティストだけでは持つことのできない課題や視点もある。多様なパートナーシップを模索することによって社会に広がりが生まれ、このような活動が可能になるだろう。


非常に時間が短く、一心不乱にメモをとったが、興味のある方はぜひウェブサイトをご覧ください。


次に、北澤潤さん。

たしか名前だけは聞いたことがあるが(おそらくフェスティバル/トーキョー関係で)、どんな作品をつくるアーティストなのかは全く知らなかった、、、が、むちゃくちゃヒットした(圧倒されてメモは少ししかとっていない)。


曰く、わたしたちは「日常」によってつくられており、「日常」には無意識を引き起こす恐れもある。

アートには「もうひとつの日常」を想起させ、「日常の革新」を促す力がある。


国内での活動もさることながら、ジャカルタに拠点を移してからの活動に圧倒される。

ジャカルタで都市開発のための政府による強制退去が進められていることから発想されたプロジェクトー理想の家のコンテスト「LOMBA RUMAH IDEAL」や、参加者が不要な商品を持ち寄り物々交換をする「LIVING ROOM」、2019年のフェスティバル/トーキョーでは、ジャカルタ式屋台を東京の街に出現させた「NOWHERE OASIS」を発表(ちょうど前後して、奈良でも作品を集めた展覧会が行われている)した。

参加型のプロジェクトは、日本とジャカルタでは作品鑑賞の仕方が異なるそう。

北澤さんの作品は、SEAに通じるところがある。


ダブル・ローカリティ、「多様性より複数性」という言葉が印象に残った。

とにかく、センス抜群。


最後は、もともとチェルフィッチュなどの作品に出演していた俳優の武田力さん。

フィリピンのフェスティバルで「たこ焼き」をつくるパフォーマンスを行ったことで有名、ということくらいを知っている程度。

北澤さんもどうやって生きているのか謎だったが、武田さんの場合はもっと謎。

武田さんの携わったプロジェクトを介して、日本でも、あちこちの地域でおもしろいアート活動が行われていることを知った。


登壇者それぞれによる活動紹介が終わり、ここから、全登壇者+enocoの甲賀さんはじめスタッフも参加するディスカッション。

日本財団が実施した「18歳意識調査|第20回ー社会や国に対する意識調査ー」が話題に。

よく言われることだけど、日本のこどもは自己肯定感が低い、未来に希望を持っていないなど。

enocoディレクターの忽那さんは、日本には広場がないーつまりここで言う「広場」とは他者の力を奪うことなく、分断されているものをつなぎとめる役割を担うものであり、この現状には公園・河川・道路を物理的に変える必要があると考えている、と。


日本は分断されているか?という質問に対して、北澤さんは、その点を考えたときに自分は非常に悲観的である。さらに「分断」という言葉から派生して、(自分は)インドネシアと日本の特性をつなぎ合わせることで作品を生み出しており、創作するための環境をつくる必要がある。

キムさんからは、日常が大事。フェスは危険な場でもあるので、一つの学びの場と捉えている。フェスを開催することが目的ではなく、あくまで手段。

韓国ではいかに市民がフェスを望むか、だからこそ予算がつくのだという考えだが、日本ではその関係が逆転している。


清水さんからはファンドレイジング・マネタイズの話。

成功しているものはビジョンが明確であり、参加者が共有できるものがあり、覚醒されるものになっている、と。

アートの評価基準についてはまだまだ議論の余地が残されている。その際、アートからの評価だけではダメ。

海外では支援のための財団も多様化しているが、日本はまだそうなっていない。


関連してキムさんからは、韓国では自治体ごとに様々な財団が発展しており、それらがフェスの成功にも大きな役割を果たしているという話が。

そしてそこでは、アーティストだけではなくプロデューサー(文化のつなぎ手として、アーティストと市民をつなげる橋のような役割を担える人)が求められている。


(誰が言ったか忘れてしまったが)日本の民主主義はこれからがはじまりであり、公共空間のあり方の議論をはじめるべきだ。


北澤さんは、プロデューサーがマネタイズしてアーティストを選ぶという現在のアンチテーゼとして、アーティストを組織や団体のトップに立って、新しい理想を社会に提案するという体制も考えられるのではないかと。

まちづくりのためにアートが用いられる場合があるが、「まちづくり」のためにアートがあるのではなく、アート作品(プロジェクト)は、アートが第一。そういう順番でないと、「おもしろく」ならない、と。

そのために、あえて「アーティスト」と名乗る必要もある。


それを受けてキムさんが、物事はまず自分からはじまるのだ。

コミュニティや国家のためという大義名分を掲げることは危険で、「自分」の力で変化を起こす方が長い目で見るといい変化を起こせるだろう、と。


武田さんは、最近「擬態」という言葉に関心がある。どんな仕組みをつくれるか、そのための対話を重ねたい、と。


文字で残すには力量が足りず残念だけど、それぞれの発言に刺激を受けたフォーラムでした。

自分の進む方向性が見えたような気がしました。

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