あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」の、その後

あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」中止を受けて、インタビューやアーティストの動きに方向性が見えつつあるように感じるので、ポイントとなりそうなネット記事をまとめておきたいと思います。


同展の中止を巡り諸団体が出した声明を読むと、「菅官房長官・河村名古屋市長の発言は憲法に照らして許されるものではない」、「展示は継続されるべき」という意見で大方一致しており、闘う相手は行政(もしくは政治家)であると正しく認識されていると思うが、同展の実行委員会や参加アーティストによるステートメントでは、芸術監督である津田大介氏と大村愛知県知事に対して不信感を持っているのではないかと勘ぐってしまう内容となっている。

少なくないアーティストやキュレーターから、「政治と結びつけられたくない」という静かな意志を感じ、残念に思っていた(指摘されている中止のプロセスについての問題や同展の企画意図のブレについては、わたしの知るところではないので触れられない)。


対話が重要であること、対話の場が必要であることには心から同意するが、それは、相手が話の通じる人間である場合のことだ。

「日本共産党」と聞くだけでカッとなり、まともに議論のできない人間を多くみてきたわたしとしては、アーティストは実にナイーブでピュアだなと思わざるを得ない。

いくら「平和の少女像」だと言っても、「慰安婦像」と呼称して憚らない人たち。

「従軍慰安婦」の問題になると、強制ではない!給料も支払われていた!自由もあった!韓国軍もベトナム戦争で同じことをやった!等々、なぜかヒートアップする人たち。

そしてわたしが最も奇妙に思うことは、そのような主張を持つ彼らが主張する際、「日本人として」と、あたかも日本人全体を代表するかのような主語を選択することだ。

「わたしは傷ついた」とでも言えばいいものを、なぜ、「日本人としての心が傷ついた」と主語をぼかすのだろうか。

これまで、「ネトウヨ」という単語を使うことは控えるようにしてきた。

南京大虐殺や従軍慰安婦、徴用工といった日本の加害責任を否定したがる人たちのことは「歴史修正主義者」と呼んできたが、今回の一件で、「歴史修正主義」なんて、まるでそんな論理があるかのように言うのは間違っていると認識した。

これからは、軽蔑の意を込めて「ネトウヨ」と呼ぶことにする。

話が脱線した。


しかし、それでも「対話」が必要であることには同意する。

市民社会の一部の全く対話にならないネトウヨさんたちのことはさておき、潜在的に「対話」の機会を望んでいる人は少なくないと実感しているからだ。

これまで、意見を同じくする者同士の集会はあれど、意見の異なる者同士が「対話」する機会があまりにも少なかった。


そのことが、いまの日本社会を「声の大きい者の力が強く」、「言わなくてもわかり合えている」とさえ勘違いしてしまう、奇妙で複雑なものにしてしまった。


「政治に介入されたくはない」というアーティスト側の論調にちょっと待てよと思っていたが、美術手帖が公開したイベントレポートに希望を持った。


「「すべき」よりもニュートラルな対話の場を。加藤翼らの「サナトリウム」が目指すものとは?」

/美術手帖編集部によるイベントレポート

【2019.8.26】

この「サナトリウム」を企画した加藤翼氏の「(地元住民に)わかりやすく説明していかないといけない。説明できない作品は展示できない。ニュートラルに対話を続けていく場が必要」という言葉。


そして、

卯城竜太(Chim↑Pom)「(市民に)もっと芸術のことをわかってもらえれば気づきがあるかもしれない。お互いが先生になって教えあう、学校のようになれば」

藤井光「公共空間と芸術は切り離せない。芸術と公共、お互いの対話は必要であるということは共有したい」

高山明「芸術祭自体を再設定しなくてはいけない時期にあるのだろう。公共をいちから考えるいい機会」「アーティストや県の人々、自治体の長などの意見を集約したガイドラインをつくれたらレガシーになる。そのワークショップとしてここを使えれば」

というあいトリ参加作家3氏の発言が嬉しく、頼もしい。

もやっとしながらも、信じることをあきらめないでよかったと思えた。


もちろん、まともな対話にならないと容易に予測されるネトウヨさんたちと「対話」するのではない。
卯城さんがおっしゃるように、市民と対話する場を開くのだ。
長い時間を要するだろうが、市民社会に開かれた対話の場、パブリックスペース、平田オリザ風に言うと「新しい広場」をつくることができれば、この騒動も無駄にはならない。

そして、同展の中止に関して声を上げるもう一方の勢力である政治関係者(活動家と言ったほうがいいのかもしれない)たち。

彼らはいつもの論調で、「表現の自由を奪うな、展示再開を」と声を上げる。

たしかにこのテンションに、距離を置きたくなる気持ちはわかる。だって、何ら対策を講じられていない今、展示を再開するなんてそれこそ無責任だ(脅迫電話程度で警察が動かないのは百も承知でしょう)。


この政治関係者らの動きについて批判的だった気持ちを言語化してくれたものが、この片山氏の記事だ。


「撤去騒ぎは今回で終わりにしよう―あいちトリエンナーレ2019の“事件”に想う-」

/片山正夫((公財)セゾン文化財団理事長)

【2019.8.14】

片山氏は、こう懸念を述べる。

「少々気になるのは、戦前の言論統制の状況下で行われるべきものとまったく同じトーンのこうした声明が、いまどのくらい一般市民の心に響いているのかということだ。

私の感じでは、「こうした人の心を逆なでするような展示を、税金を使って公の場所でやらないで」という人々の声は、かつてより確実に大きくなっている(そういう作品を美術館が扱うようになったからでもある)」


そうなのだ。

あいトリの直前には「はたらくくるま」増刷中止や商業施設での自衛隊イベント中止という市民運動のアクションがあり、もちろんこれらと「あいトリ」問題は土俵の違う問題であるのだが、おそらくこれらの事柄を切り分けて考える人はそう多くはないだろうと思われる。

(奇しくもこれらがさほど日を置かずにつながったことも、ネトウヨをヒートアップさせた一因であると思う。)


片山氏はさらにこう続ける。

「アーティストや作品自体を批判したものはほとんどなく、多くが「公の場所で」「公金を使って」展示されることへのクレームであった。「やるのなら個人か民間でやって」という意見も少なからずあり、私にはこれらが、アート界・言論界が主張するような「表現の自由への挑戦」というより、むしろ文化政策に対する示唆のように感じられた」


もう、おっしゃるとおりというか、補助金の打ち切りを示唆した菅官房長官の発言が問題であることはゆるぎないが、少なからぬ声として、「表現の自由は侵してはならないが、公金(つまり血税)を使っていることは問題だ」と聞こえてくるのもたしかだ。

(この角度から、前述したようにあいトリ参加アーティストでもある高山氏の「公共をいちから考える機会に」へつなげたい。)


「現代美術ってよくわからない」「税金を使うなら公平に」、これまで直視してこなかった問題がここに来て一気に顕在化したとしか思えない。

「公共」の認識の違い。社会にとって、人が生きる上で「芸術」はどんな役割を果たしてきたのか。

階層の分断を乗り越える努力を怠ってきたのかもしれない、とすら思う。

やはり、「対話」が足りていなかったのだ。


そして、ようやく待ち望んでいたインタビューが出た。


「あいちトリエンナーレ津田大介芸術監督インタビュー」

/webDICE インタビュアー:浅井隆

【2019.8.24】

正直、津田さんがここまで踏ん張る人だとは思っていなかった。

(〝スーパーアドバイザー〟の東さんがさっさと逃げ出して、津田さんを背中から撃つような醜態を繰り広げているので、なおさら思う)


津田さん自身も認めているように、外部の人間からにはわかりようもない問題点がいくつかあったのは事実だろうけれど、この局面で、憲法に照らして「表現の自由」を守ると発言した大村知事、そして現場で踏みとどまる津田さんを背中から撃つような真似だけはしてはいけない。

テロや脅迫によって芸術祭をつぶそうと画策する勢力には、屹然とした立場を示していかなければならないと強く思う。

警察の後手後手の対応は、何も今回がはじめてではない。「脅迫」程度では、警察は動かない。

事件が具現化してはじめて、警察は動く。つまり、事が起こらなければ警察は動かない。

これまでも散々指摘されてきた問題だ。


これを契機に、「公共とは」「芸術とは」という議論が活発になり、市民社会に一定の共通理解が生まれ、これまで以上に多くの人が文化芸術に親しむ社会が生まれてほしいと思うが、それは高望みしすぎだろうか。

ただ、これを機に、芸術祭やアーティストの側に委縮する空気が生まれることや、助成金を採択する側の行政や公的機関に、政権への忖度する動きが現れないことを祈るばかりだ。

後援名義の使用を巡って、すでに「公平」の問題が顕在化しているので憂慮する。


「これは芸術ではない」「これは政治的である」、その判断は個人の主観でしかなく、そのような意見に引きずられることは危険だ。

「政治的な主張をするな」という主張がいかに「政治的」であることか。

政治の持つ暴力的な一面を甘く見てはいけない。


「連帯を示すために」。展示室閉鎖、内容変更に見る「あいちトリエンナーレ」海外作家たちの態度表明

【2019.8.20】

津田大介が作家たちのオープンレターに回答。「表現の自由は私たちにとっても重要」

【2019.8.23】


<追記>


REAL KYOTOに掲載された福永信さんによるレビューもよかったです(2019.8.25公開)。


Mediumにて公開された津田さんのテキストも置いときます(2019.8.15公開)。

<追記>

どんどん、いいステートメントが出てきますね。

このステートメントは、あいちトリエンナーレが当初掲げていた「ジェンダー平等」に「表現の不自由展・その後」展示中止の問題を絡めながら、平和の少女像の持つテーマ性、そして歴史認識の誤りについても言及をしていて、とてもいい内容だと思います。

https://www.art-it.asia/uncategorized/203150

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