「日本戦後史論」内田樹×白井聡
あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」への政治家の介入、展示中止。
そしてその後、同芸術祭の芸術監督である津田大介氏を招いて行われるはずだった神戸でのシンポジウムが、これもまた政治家による先導でクレームによって追い込まれ、中止に(このシンポジウムを中止に追い込んだ神戸市議は、主催である神戸市民文化振興財団に対し「政治的公平性」を保つために津田大介氏ではなく有本香氏を呼んではどうかと提案したり、今後も財団を監視しなければならないなどと恐るべきことを口にしている。はっきり言って論外)。
先日、原水禁世界大会in長崎において参加した分科会「文化の力で反核平和の輪を広げよう」でも、自治体の後援名義取得や会場使用について、各地で起こった問題を聞いた。
たしかに「安倍政権打倒」という文言が申請書に入っていると、自治体として後援名義は出しにくいということは理解するが、たとえば「核兵器廃絶」「憲法を守ろう」といった文言に対して「政治的公平性」が保てないという理由で後援を断るということには驚きを禁じ得ない。
前述の神戸市議のような手合いが、各地にいるということの証左でもある。
同書においても、神戸市・神戸市教育委員会が、毎回、後援を出していた護憲集会に対して、はじめて後援を断る事態となった経緯が触れられている。
燐光群の坂手洋二さんがこの件に関して触れているブログ記事をたまたま見つけた。
この一件に関して、「市や市教委は政治的中立性に配慮しているわけじゃないんです。現政権に配慮しているだけなんです。「改憲」を掲げている政党が与党なので、「護憲」を主張している人間は「反政府的な不逞の輩」だということになる。そんないかがわしい人物の講演に市や市教委が名前だけでも貸したらいけない。そういうことを言い出した市会議員か県会議員がいたんでしょう。そういうそういう小粒な連中が市や教委に脅しをかけた。たぶん、そんなことだと思います」と内田氏は語っている。
そのとおりだと思う。
そのとおりだと思うし、おそらく2015年の当時よりも、状況は悪くなっている。
そのことは、今回のあいちトリエンナーレから波及した神戸での一件が象徴している。
神戸での件は、あいちトリエンナーレとはまた異なるフェーズの問題であって、ある意味、あちらよりも深刻な問題だ。
適切な敗戦処理を行うことのできなかった日本は、これからますます苦しむことになるだろう。
自らの歴史とどう向き合うか。ここが正念場だ。
同書は、まるで2019年現在の日本社会を予期しているかのような内容で、多くの示唆を与えてくれた。
いま、まだここで持ちこたえているのは、市民運動あってこそだと信じて。
内田氏は結びに、「革命家にとって最も重要な資質は「革命的大衆は必ずや立ち上がる」という同胞たちの知性と倫理性に対する絶対的な信頼」だと説いている。
わたしも、同時代に生きる人々を信じたい。
世界は生きるに値する。生きるに値する社会を、みんなでつくっていこう。
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