DANCE BOX主催「“老い”から見える、ためらいと希望の哲学談義」
DANCE BOXが主催する、【共生社会|公開勉強会 L-3】「“老い”から見える、ためらいと希望の哲学談義」に参加してきました。
話し手は、西川勝さん(臨床哲学)、砂連尾理さん(振付家/ダンサー)×首藤義敬さん(はっぴーの家ろっけん)。
※ところで、西川さん、砂連尾さん「×」首藤さんとチラシに掲載されていることにいまさら気づきました。この「×(カケル)」を見落としていたから、3名の関係性を勘違いしていたわけです。
まず、西川さんから「哲学」とは何か、について。
西川さんによると「哲学」は、「問い」そのものを問い(考え)直す行為である、と。
「問い」に答えはない。それは本当に大切な「問い」なのか考えること。
自分は何を知りたいのだろうと、「問い」を吟味することが「哲学」である、と。
正しい答えをすばやく出すことが学者や研究者の仕事だと思われているが、哲学はそうではない。
たとえば、「平和な日本をつくるためには何をすればよいか?」という問いを、「平和」って何?というところからはじめるのが哲学である。
決して王道ではなく、将来を見据えてしっかりと歩んできたわけではない…(と、わたしは感じた)西川さんのパーソナルヒストリーもおもしろかったです。
つづいて、砂連尾さんのお話。
砂連尾さんのまいづるでの活動は何となく目にしていたけれど、実際にみたことはありませんでした。砂連尾さんの作品は、アートシアターdbで、マレーシア・カンボジア・日本のダンサーによる国際共同制作作品「ダンスと仕事とお金についてのおもろい話とパフォーマンス What Price Your Dance」を2016年にみたっきり(身体的な表現ではなくコンセプトばかり覚えているのが残念だけど、おもしろい作品でした)。
砂連尾さんがダンスをはじめたのは大学生の頃。
資本主義から逃れてダンスの世界に飛び込んだはずが、もっと厳しい環境ー(たとえば)新作をつくらなければ公的助成を受けられないー状況に置かれていることに気付いた、と。
ここで、砂連尾さんが舞鶴市内の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」でのワークショップから生まれた作品「とつとつダンス」を映像とともに紹介。
この砂連尾さんの活動を10年追いかけてきた(現在は西川さんも講師として参加)西川さんは、「認知症の人にやってはいけないということをやっていて驚いた」というコメントが。
また、ダンスを通してこんなにも美しい出会いがあるのか…と。
曰く、臨床哲学は一人ではできない、必ず相手が必要である。
哲学は自分のことを考えるもののように思われがちだが、それは違う、と。
「とつとつダンス」の映像をみながら解説する砂連尾さんが、共演者のミユキさん(数年前に亡くなられたそう)や、このワークショップを通じて出会ってきた人々を思い出して泣きそうになっているように見えた。
グレイスヴィルまいづるでのワークショップ「シリーズとつとつ」には、介護される方だけではなく職員の方も参加しているが、これほど理解のある施設でもワークショップで得たことを実践に移す余裕がない、と砂連尾さんがおっしゃったことが印象的だった。
西川さんも砂連尾さんも、人と違うことを選んできた人だ。
お2人の姿に、人と違うことを選ぶ人の強さとやさしさを感じた。
先日みた映画「Girl ガール」の主人公ララ(トランスセクシュアル)にも同じ印象を受けたことを思い出した。
そして、3人目。長田で「はっぴーの家ろっけん」を運営する首藤さん。
なんとここで、首藤さんは西川さんと砂連尾さんのことを知らないということが明かされる。3人の名前が「×」で表現されていたことの意味を知る。
「はっぴーの家ろっけん」の名前には覚えがあって(下町芸術祭のチラシか何かでみたことがあったのかも)、活動はまったく知らなかったのだけど、こんな介護施設があるのかと驚きの連続でした。
自身の子育てと介護が同時期に起こったときに、そのどちらもできて、家族が安心して暮らせる場所をつくりたいという動機から、「はっぴーの家ろっけん」の構想につながったそうだ。
「こどものときにみた景色を再現したかった」という首藤さんの言葉が印象的だった。
入居時に「こどもが嫌いだ」というおばあちゃんを断ることもできたが、化学変化が起きるかもしれないと感じて入居してもらい、その後、おばあちゃんも変わったという話も。
首藤さんによると、きれいな意味の助け合いではなく、依存し合っている生活だ、と。
認知症のおじいちゃん・おばあちゃんは、こどもといると楽しい、親は、こどもをみてもらえて助かる、という関係性。
核家族が多くなり、地域でこどもを助けるという環境が減っているいま、孤独ななかでの子育てに苦しんでいるお父さん・お母さんも増えている。
もちろん、おせっかいであればいいということでもない。全般的にコミュニケーションがむずかしくなっている現代。
首藤さんは、「はっぴーの家ろっけん」のやり方が一番いいのではなくて、ひとつの選択肢として「はっぴーの家ろっけん」があると主張する。
いいと思えば選べばいいし、そうでなければ別のものを選べばいい、それだけのことだ。
互いが依存し合い、ケアする側とされる側の境の曖昧な「はっぴーの家ろっけん」の活動紹介を受け、西川さんは、「ケアする側とされる側しかいない場はロクなことにならない」、「医師や看護師一人ひとりががんばっても、「ひとりの人、ある職種の人の努力だけでどうにかなるものでもない」と。
ケアの暴力性に言及する、精神病院での勤務経験がある西川さんならではの実感のこもった言葉。
「医療の世界というものは、相手の問題をみつけて解決することがよいとされるが、はっぴーの家ろっけんは、その成り立ちからも、自分の問題と他者の問題とを地続きにしているところがおもしろい」、「お互いさまでやっている、だから相手(ケアされる側)は力を奪われないところがいい」。
いまの社会は、学校でも社会に出てからも、ずっと均質な場に置かれてしまう。
そのほうが「効率がいい」から。
言葉を変えれば、わたしたちは「いつでも交換可能な部品」にされてしまっている。
「同じ」だから存在を許されているのであって、たとえば「定年」という制度も、年齢によって境を区切られてしまう暴力性がある。
そして西川さんは、「貨幣経済で成り立っている社会では、お金がないとどこにも居場所がない」と指摘。
西川さんの師匠・鷲田清一(!)さんは、「正しいものに従うのは、正しいことであり、もっとも強いものに従うのは、必然のことである」というパスカルの言葉をひっくり返して、こうおっしゃったそうだ。
「弱いものに従うのは自由である」
(ここで言う「弱いもの」という言葉は、単に「弱者」ということではない)
西田さんは付け加えて、「外れてしまうことはできるが、無力であってもその場に居続けることも自由だ」、「芸術は自由。自由でなければならない」と。
この言葉で、あいちトリエンナーレのことを強烈に思い出す。
そうだ、芸術は自由でなければならない。自由であるから、人は、想像力を持てるのだ。
砂連尾さんは、はっぴーの家ろっけんの活動をおもしろいとしながらも、「選択肢を増やしていくことがどう社会を担保するか。一人でいたいとき、人といたいとき…」と考えている様子。
それに対して西川さんが、先の鷲田さんの言葉を引用して、「弱いものに従うのは自由である」ということは、内なる弱さにも従うということ。「弱きもの」というのは、他人の弱さだけではなく、自分の弱さも含んでいる。
対等の「お互いさま」ではなく、<助けたいけど助けられない><助けてほしいけど助けてもらえない>、そのような2人がともにいられるかということ。
医療や介護の現場では、ケアを受ける人は「自分の弱さ」を出さざるを得ないのだ。反対に、ケアする側は自分の弱さをみせないほうがよいとされている――。
最後に、司会の横掘ふみさんから「死」についての投げかけ。
事前に会場からとった質問には、「死を考えると怖い、眠れなくなる」というものがあり、横掘さん自身も「老いることは怖い」と。
これに対し西川さんは、「死ぬということは席をゆずることなんだ」と話す。「死んだこともない人間が〝何をできるか〟より、目の前の人から何を受け取れるか、亡くなった人が何を残してくれたかを考えることが大事だ。ゆずられた場所を自分はどう生きるかが大事」と。
砂連尾さんは、「死に方を選べない」というダイナミズムもある、と。舞台をつくるにも「はじまりとおわり」をつくらなくてはならない。はじまりとおわりの間をいかに過ごすか。
「はじまりとおわりの間をいかに過ごすか」という言葉に対して、西川さんは、「どんなに過ごし方を考えても、終わり(別れ)のときには一気に押し寄せるもの。終わり=無になることだと考えないで」と。
「ソクラテス(あるいはプラトン)は、哲学は死の練習だと言った。死ななきゃ生きている甲斐がないでしょう」、と。
省きましたが、首藤さんによる「はっぴーの家ろっけん」のお話の中であった、働いていた時代はそれなりの立場にあったが退職をして、さらに認知症を発症して困った行動をとるおじいさんが、はっぴーの家での生活を通して変わっていく過程がおもしろかった(会社のように役職を与えたことで変わった部分があるそうだ。人は、社会的立場で生きるものなのか)。
死に相対する場面、こどもたちに「死」をどう説明するか、という点もよいお話でした。
劇場という非日常空間で、「死(老い)」を考える豊かな時間でした。
この3名をブッキングしたDANCE BOXの横掘さんの手腕に拍手。
0コメント