教育者・今村昌平/今村昌平・著 佐藤忠男・編著

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(2017-08-25)

2019年のKAWASAKIしんゆり映画祭で、川崎市の介入によって一旦は上映中止となった『主戦場』が、関係者や市民の声・アクションによって上映されることになったことは喜ばしいが、その判断のメカニズムを調査することが必要だ。

あいちトリエンナーレといい、今年はこういった事件が多すぎる。


これは、カンヌ国際映画祭のグランプリを2度受賞した日本人唯一の映画監督であり、映画を志す若者の集う学校をつくり、教育者でもあった今村昌平監督の本だ。

この人のつくった学校を出たわたしは映画関係の仕事には就かなかったけれど(しかもわたしが入学する前に今村昌平監督は亡くなっているので一度もお会いしたことはない)、いま、演劇という生業を得てなぜか人材育成に惹かれているのはもしかして今村監督のスピリッツの影響をたぶんに受けているのかもしれない、なんて思ったりする。


<日本映画学校理念>

日本映画学校は、人間の尊厳、公平、自由と個性を尊重する。

個々の人間に相対し、人間とはかくも汚濁にまみれているものか、人間とはかくもピュアなるものか、何とうさんくさいものか、何と助平なものが、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。

そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。

個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある。


高校3年生だった当時、学校案内のパンフレットだかホームページだかでこの文章を読んだわたしは、何とかっこいい文章なのかと感銘を受けた。

関西に住んでいるので大阪芸術大学や、立命館大学に新設される映像学科(こちらは講師に山田洋次監督がいる)でもよかったけれど、ほかの学校は眼中にないくらいこの学校しかないと思っていた。 

この本の編著に名を連ねる佐藤忠男さんは映画批評家(というのか)で、長くこの学校に関わり、校長としての任にも就いてきた。

この人の批評には、映画への愛があり、映画をつくる人への尊重がある。

それは生徒のつくったものに対しても変わらないし、けなすだけの批評はしない。本当にすばらしい映画批評家だと思う。


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私が今村昌平さんと知り合ったのは一九五八年である。

彼の監督第三作の「果てしなき欲望」を見て、この野放図な新人こそは次の時代の日本映画を背負う大物だと確信して映画雑誌の編集者としてインタビューに行ったのである。

増村保造や大島渚が相次いでデビューした時期であり、私は彼らの新しさを力説することで自分も新進の映画批評家としての立場を固めた。

一九六〇年前後はめくるめくような”われらの時代だった。”  

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以前に読んだ大島渚の本で何度も名前が出ていたのは、こういうことなんだ。映画監督と映画批評家、立場は違えど、映画を愛する同士影響し合い、通じるものがあるのだ。


話は、現・日本映画大学の前身、日本映画学校のそのまた前身、つまりこの学校の礎である横浜放送映画専門学院の開校前夜からはじまる。

この頃はまだ演劇科があったようで、その講師陣の顔ぶれがすごい。 演劇科の講師であった沼田幸二さんがこう書いている。


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私たち演劇科のスタッフは、今村昌平学院長から招集を受けて、代々木上原の今村宅に集まった。演劇科のレギュラー講師陣、初めての顔合わせであった。小沢昭一、岩村久雄、関矢幸雄、岡田和夫と私。

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関矢さんが横浜の講師だったとは知らなかったなあ…。

今村昌平のブレーンだった小沢昭一さんが関矢さんを今村さんに紹介したらしく、演劇科の中での担当は「肉体表現」。

のちに講師となる藤田傳さんがこのメンバーに入っていないのは、このときにかぎり今村昌平と仲違いしていたかららしい…。

この学校の伝説の農業体験のことも詳しく書いている。わたしもこれ、体験したかったのだけど入学したときにはすでにやっていなかった。代わりに「人間研究」という授業に変わっていた。

これはこれでおもしろかったけれど。


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農業体験初日、各農家へ学生を振り分ける際に、 「強そう!」とか「めんこい!」とか、一人ひとり学生の感想を声にして言うオッサンがいた。

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とある。いいなあ、こういうの。


この思いつきのようにはじまった農業体験の経緯、それこそ受け入れ農家探しから…について、今村監督はこう書いている。


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農村に向う学生たちへ——(抜粋)

——今、日本で百姓をやることはワリが合わない。

——今、日本で映画監督をやることもワリが合わない。

映画監督も百姓も、ゼロからものを創り出すのは同じで”もの創り”は今や全くワリがワルイのである。

ワリのワルイことをやりたい諸君に、ワリのワルイ百姓を是非やってみて欲しいと思うのだ。

そして自分たちが将来、どんなにワリのワルイことをやっていくのかを痛切に知ってもらいたい。

今村昌平

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演劇も全くそうだ。ああほんと、ほんとに、ほんとーにワリに合わない。でもたぶん、ワリに合うことならわたしは辞めている。

そもそも、どうせ死ぬっていうのに生きていること自体がワリに合わないもの。


横浜の二期生の入学式のあいさつで、今村監督は「創造の道」についてこう語りかけている。


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映画、テレビ、演劇など、自分以外に頼るものがない世界に身を投じようという気力をもちあわせた若い創り手たちには、敬意を表したい。

だが、敬意を表すると同時に、緊張を強いたくもなる。

なぜなら、創造の道というものは、大変困難な道であるからです。

創造する喜びなんて言葉は、大変美しいが、それには、肌身を突き刺すような痛みや苦しみが伴うので、そうそう気楽に喜びなんていえるようなものじゃない。

<中略>

では、売れやすいものを創ればいいかというと、そうでもない。

自分の主張を曲げてまで、売れやすいものを創るくらいなら、初めから創らない方がいい。食うためにのみ創るのだったら、女をつくって、ヒモになった方がましである。

何を創り出して、その結果がどういう意味をもつかということは、創り手の側に責任があります。

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ここまで言ってくれる「先生」、ふつういるだろうか。  

同じ創り手(として生きるであろう)生徒を対等にみてくれている気がする。

こうも言っている。


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いまの大部分の若者たちは、既成のレールの上を、安穏と気楽に走っていこうと思っている。

しかし、この、安穏や気楽は、私たち創り手から見れば、飼い犬のそれでしかない。

既成のレールを拒否し、もの創りに邁進する者は、これはじつは野良犬へのコースなのです。

もちろん、私も野良犬だから、おとなしい、いうことをきく飼い犬に出会いたいという気は毛頭ない。

私は常に、将来、狼になるような野良犬に出会いたいと思っている。

できれば、考える狼に。

だから、意地と強さを身につけ、考える狼としての誇りを捨てないための暮らしぶりをするべきである。

教育といえども、もの創りである以上、人格と人格のぶつかり合いである。

教育の場は、自由な個人の集まりです。

私は、この学院が、失われた人間関係を再会していく、つまり、未来にとっての広場の意味をもつことを希望している。

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日本映画学校の二期生にはこう語る。


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映画を観ることが好きだということと、己を創る側に投入することとはまるで違う。

そこは常識の支配する世界ではない。

我々は既設のレールなど物ともしない、勇気ある若者を求める。

彼らは少々「非常識」かもしれない。

しかし「常識」が何ほど、新しい文化の創造に寄与し得たか。 

君に才能があるかないか、そんなことは我々にだって分かりはしない。

レールのない曠野を望む時、君は不安に震えるだろう。

その不安を克服する時、いや少なくとも克服すべく、走り出した時——すべての判断は、その時なされるだろう。

勇気がいる、たしかに勇気がいる。

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『豚と軍艦』という映画の撮影のために、横須賀へ調査に行った話も楽しい。


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その時に、恐ろしい向こう傷をもって、久里浜かどこかで妾宅を改造して住んでいる、ピストル密造が生業の、ケンちゃんという男がいた。この男と極めて仲良しになりまして、この男といろいろ話をしている中で——彼は自分たちのことを「遊び人」と称しておりましたが——「真面目に働いていたって、非常に苦しい世の中である。

まして、我々、遊んで暮らしている者のつらさったらいいようがない」なんていうんですね(笑)。 

だから、調査というものは 非常に大事であるからして、劇映画のリアリティを求めるというものからドキュメンタリーへの指向は目ざめていたわけで、自然に、その製作へ移行していったわけです。

調査というものは、格好よくいえば、真実に肉薄しようということだといえる。

ただし、私は、調査は「表層」だけを追うものであってはいけないと思う。

「表層」ではなく、「基層」世界を調査する。そこに着眼すると、底にある真実に多少触れることができるのかもしれない。

私のドキュメンタリーへの指向はそこにあるといっても過言ではないと思います。

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ここで、真実に「多少」触れることができるのかもしれないと言っていることがいいと思う。

今村監督ほどの調査をもってしても、触れることができる真実というのは、「多少」なんだ。


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「文化」について  

それは、何も映画に関してだけではなく、日本の文化一般に対して言えるわけです。

確かに、日本には、歌舞伎があり、能がある。

しかし、それは、徳川三百年という鎖国の状況の中で、特に日本は大陸の端にくっ付いている小島であるからして、文化の流通というものに乏しいわけですね。

しかも、太平洋という大きな溝がある。

だから、日本では、文化というものが、重層的に折り重なって、東から西に流れていかない。

常に西から来る。それでいて、東に流れていかない。

これは、世界の文化の流れから見て変なことだと思う。

鎖国という中で、文化の流入はあるけど、流出はしない。そういったことは、世界に例がないわけですね。

そういった中で、文化というものはどうなっていくかというと、一つの退廃をしたと思います。

私は、歌舞伎を観る時に、特にそう思う。あれは、退廃の美しさだと思う。

歴史がだんだん重なって、底の方から堆肥の臭いがしてきて、ほろあったかくなるなんていうような退廃の中にある美しさというものが、歌舞伎の美しさだとも考えられます。

それは、確かに日本的であるには違いないんだけど、三百年の鎖国というかなり奇怪な、面妖な歴史的な時間の中で特に現れた形だと見られる。

何をもって生きるかわからず、そういったポリシーなしに、戦後何十年、馬車馬のように働いた中年者たちがそこにいるだけですね。

「そんなに働いてどうするのか?」と問いつめていくと、詰まって返事もできないというおとっつぁんたちが、山のようにいるわけです。

もちろん、彼らを責めることはできません。

だけども、ものを創るものは、「何のために生きるか」といったようなポリシーを、発見していかなければならないんだと思う。

その一つの方法として、僕は日本民族の伝統的な社会の中に、まだ残像として残っている心というものを、創造の、一つのよすがにしたいと考えるわけです。

本来、”創造すること”を他者から学ぶことはできない。

創造は終に個人的なものであり、ほんの少しの手助けをも拒否するものだから。

だが、”創造する態度”を学ぶことはできるし、また、創造するための基本的教養を身につけることはできる。

従って、我々の通念にあるところの経済行動というものは、私は、お金のことを考えなければいけないプロデュース部分とディレクターの部分を持っていたのだが、ディレクターの部分は、はるかにプロデュース部分よりも強く、経済観念をなぎ倒したわけですね。

そういったことは、滑稽な、非常識な部分ではありますが、非常識しかモノを創ることはできないのであります。

だから、非常識はそうとういいのである。

常識はよくないのであります。そこに僕らは、立脚しなきゃならない。

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わたしはたったひとりだけ、この学校を卒業して同じ業界で働いている先輩を知っているけれど、本作によると劇団「風の子」に入った方もいるようだ。

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