ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(原題:Sorry We Missed You)
全ての要素が映画をドラマチックにするためではなく有機的に作用しながら、つくり手が観客に掲示したいテーマを効果的に伝えるための手段としての役割を果たし、それでいて観客を近づけも遠ざけもしない。
(作品のテーマというより、ケン・ローチの心が伝わってくる)
観終えたあとは圧巻の出来栄えにただ放心し、いまも自分が本作に抱いた感想をうまく言葉にできる自信がない。
とにかく観てくれという気持ちです。
こんなに見事な映画はなかなかほかに思いつかない。
特筆すべきはタイトル。
「家族を想うとき」という邦題も悪くはない。
悪くはないが、やはり映画の内容にピタリとハマっているのは原題の”Sorry We Missed You”だ。
劇中明かされるのだが、”Sorry We Missed You”は宅配の不在票に書かれる言葉らしい。
「あなたに会えなかったので、荷物をお渡しすることができませんでした」というような意味。
言葉をそのまま受け取ると単なる不在票なのだが、映画の上映中、ふと思った。
これは、必死で生きようとするターナー家を、社会が見逃してしまってごめんなさいという意味なのかもしれない。
さらに、不安定な家庭の経済事情に影響され、お互いにお互いを見失ってしまっている家族同士を表している言葉なのかもしれない。
胸が締めつけられる思いがした。
イギリスのニューカッスルで暮らすターナー家。
父・リッキーはフランチャイズの宅配ドライバーとして新たな仕事をはじめる(彼がなぜこのような不安定で何の保障もないこの仕事を選ぶに至ったかということが劇中明かされる)。
母・アビーは、パートの介護福祉士として働いている。
フランチャイズの宅配ドライバーも大概な仕事だが、介護福祉士の仕事の実態も相当なものだ。
日本における介護福祉士の実態とそう変わらない。
彼女は時間単位で利用者の家をまわらなければならないが、リッキーが仕事用の車を調達しなければならないため車を手放し、バスで移動しなければならなくなる。
仕事の合間の移動中にも家族に電話をかけ、家族の面倒を見なければならない。
そんな大変な中でも彼女は介護福祉士としての仕事を全うし、会社の決めた制約に疑問を感じながらも精一杯働いている。
利用者の思いに沿った介護をしたいのに、会社が定めたルールに従わなければならない。
しかし介護職は、人と人とが直接交わる仕事だ。もどかしく揺れる彼女の気持ちが伝わって苦しくなる。
アビーも時間に紐付けされているのだが、それはトイレを行く時間もなく、運転席に座っているかどうかまで機械で管理されているリッキーも同じだ。
さらにアビー自身が娘のライザに、自分が不在の間、何時になったら何をして…、ゲームは○時間まで、と携帯で連絡している姿が印象的だった。
現代人はかくも時間に管理されている。
彼らの望みは、マイホームを買うこと。そのために必死なのだ。
2人の子どものうち、兄のセブは親に反発気味。
妹のライザはいわゆる「いい子」だが、やはり親の不安定な感情が彼女にも伝播してしまう。
昨今の日本では自助努力をせよという「自己責任論」が人々の心にすっかり浸透してしまった感があるが、ターナー家の生き様を見てもわかる。
誰もはじめから、他人に頼って楽をしようなんて考えていない。
ギリギリまで自分の力で何とかしようともがくのだ。
しかし現実は、努力したことが全て報われるわけではない。
もがけばもがくほど沼に入り込んでしまい、結果、自分一人の力では抜け出せないところまで至ってしまうこともある。
それがこのターナー家だ。
個人の努力でどうにもならなくなる前の早い段階における公的な支援が、絶対的に不足している。
建設作業員として真面目に働いていたリッキー。そのまま順調に行けば、マイホームも手の届く未来だったはずだ。
しかし金融危機の影響で仕事を失い、再就職はどこにもなく、フランチャイズの宅配ドライバーという不安定な職業を選択せざるを得ない。
劇中登場する、幸せにあふれたリッキーとアビーの若い頃の写真に胸がつまる。
最近、黒ナンバーの白のワゴン車をよく見かけるので、個人事業主の宅配ドライバーは日本でも増えているのだろうから、問題が顕在化するのも時間の問題だろう。
ただ、まだまだ一般的ではないので、フランチャイズの個人事業主というとコンビニオーナーの方が身近だ。
(余談だが、南アフリカへ行ったときにはUberがとても便利だった。ドライバーも、若いのにいい車に乗っていた。Uberを生業にしているのかはわからないが羽振りはよさそうだったので、途上国と先進国におけるギグ・エコノミーの違いはあるのだろうと感じた)
ターナー家に起こることは、悪いことばかりではない。
しかし、次々と試練が訪れる。
少しずつ少しずつ、家族の関係が壊れていく。そして……。
このあとターナー家がどういう運命を辿ることになったのか、劇中では示されない。
命を落とすところまで描かれた「わたしは、ダニエル・ブレイク」と比べると、死んではいないだけ希望はある。
この家族が幸せになることを願いつつ、何らかの要因で困難を抱えた人に対して、できるだけ早い段階で公的支援が届く社会になるための働きをしたいと強く思った。
(そしてそれは自分のためでもある。誰もがこの事態と無関係ではないのだ)
▶︎公式ウェブサイト
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