リアルのゆくえ おたく/オタクたちはどう生きるか/大塚英志+東浩紀

はてなブログ(2017-08-01)からのサルベージです。

「公」「公共」など、いま旬なワードが並んでいたので。

思えば東さんはこの頃も「左翼」から叩かれてたんだけど(積極的棄権の直前か)、この対談当時からもっともっと遠いところへ行っちゃったな。


「アンラッキーヤングメン」という漫画を読んで、衝撃を受けた。

山本直樹や岡崎京子、楳図かずお等々といったいわゆるサブカル系とよばれる漫画を愛読するようになったのも、もしかしたらこの漫画がきっかけだったかもしれない。

連合赤軍事件について興味を持ち、関連書籍を読みはじめたのは間違いなくこの漫画を読んでからだ。

関連して、永山則夫の本も多少は読んだ。でもなぜか、どれも最後まで読みきることはできなかった。


「アンラッキーヤングメン」の舞台は1968年。日本では学生運動真っ只中の頃。

永山則夫連続射殺事件・連合赤軍事件・三億円事件といった歴史に残る昭和の大事件が互いにリンクし、永山則夫、永田洋子、三島由紀夫といった人物をモデルとしたキャラクターが登場する。

いまでは亡くなった人物がほとんどだが、いまも活躍をつづける北野武をモデルとした人物も登場する(彼には、永山則夫と同時期に同じジャズ喫茶で働いていた過去がある)。

「アンラッキーヤングメン」に関してはいくら語っても語り足りないほど思い入れがある。

ここから大塚英志原作の漫画というものに興味を持ったわたしは、その後、「くもはち。」「探偵儀式」「八雲百怪」「東京事件」「とでんか」「三つ目の夢二」「北神伝綺」「木島日記」といった漫画をむさぼるように読んでいった。

「アンラッキーヤングメン」ほどではないが、「八雲百怪」「東京事件」「三つ目の夢二」「木島日記」にはかなりハマった。

おそらく大塚英志原作ものとして最も有名である「多重人格探偵サイコ」は一巻をパラパラっと読んだだけだ。なんでだろう、あまり読みたいと思わなかった。ただ、ルーシー・モノストーンというキャラクターには心惹かれるモノがあって、ネットでいろいろとみた記憶がある。


多分、大塚英志いうところの「偽史」的な色合いの濃い作品の方が好みなのだろうなぁ。

漫画だけでなく、著作も少しは読んでいる。「物語消費論」「少女民俗学」「りぼんのふろくと乙女ちっくの時代」「戦後まんがの表現空間」「彼女たちの連合赤軍」「サブカルチャー文学論」「捨て子たちの民俗学」ーー思ったよりも、けっこう読んでいる。

でも、彼の著作はこんなもんじゃない。ゆくゆくは網羅したい。


大塚英志の熱烈なファンではあるのだけど、対して、この「リアルのゆくえ」という本で彼の対談する相手の東浩紀は、よく知らない。

というか、彼の本を読んだことがない。本を読んだことがないというのに、東浩紀のツイッターはフォローして、逐一動向や発言をチェックはしている(←当時、わたしは東さんをフォローしてたのか!驚いた)。

わたしの知っている東浩紀という人は、彼の主宰する「ゲンロン」にまつわる少しの事柄とか、平田オリザはもとより、彼より若い世代の演劇人、演出家をゲンロンのゲストに呼んでいることだとか、チェルノブイリのダークツーリズムのことだとか、まあ、そんなくらい。

ああ、あとは最近、「 クレーマー集団と化した左翼とは完全に話があわなくなってしまったが、いまさらネトウヨにもなれない。ぼくはいったどこに行けばよいのだろうか・・・って、ぼくみたいなひといっぱいいると思うんだけど、どうしてこの立場を代表する政治勢力が現れないんだろうな。それこそが現代の病理か」ってつぶやいて、テンテンコにダサいってディスられて、炎上して、このツイート削除して、ってことくらいは知っている。


東さんの斜にかまえた感じがどうも他人事にはみえないので、個人的には好きにも嫌いにもなれない人だ。

余談が長くなってしまったが、ともかく、表題の本を読み終えたことを記録しておきたい。

この本は、2001年、2002年、2007年、2008年と、大塚英志と東浩紀が4回に渡り対談した内容から構成されており、多分にその時代背景を投影している。

ところがその後、2011年に日本は激変したので、そろそろもう一度対談して、そこのところを踏まえた発言を聞きたいなあと思う。


以下、印象に残った発言。


<東> 物語そのものは求められているけど、その質は変わっている。ギャルゲーが典型的だと思いますけど、ギャルゲーの物語なんて誰も読んでないわけです。すごいスピードでリターンキーを押し続けるだけで、裏返せば、そこには読み飛ばしても分かるような内容しか語られていない。これがいま求められている物語の基本だと思う。定型に還元された物語と効率のよい感情移入のシステム。そうした変化の条件として、インターネットの出現は大きいでしょう。


<東> 本にせよなんにせよ、昔は作り手が作品のデータをすべて用意するというのが原則だったと思うんです。つまり、物語だったら、とりあえず語られたもので十分な情報が伝えられると。ところが、ライトノベルの書き方なんか見ると、作者はあちこちに感情移入の付箋を貼っておいて、あとは受け手の側で好きなように解凍してくれ、といった感じなんですね。このようなコミュニケーションが成立するためには、受け手と作り手が共通のデータベースを持っていないといけないわけだから、仲間うちだけの閉じた作品になる可能性は高い。

<中略>この場合、いい小説とは、できるだけ多様な感情をできるだけ効率よく圧縮したものということになるでしょうね。つまり、適度な量で物語も平凡だけど、感情を喚起するポイントがとにかく満載されているもの。<中略> 純文学系の小説は、作者が書くべきことをすべて握っていて、言語化する段階で七、八割くらいに再現度が落ち、さらに読者が読む時点では四割くらいに落ちる、という発想で作られている。

<中略>ところがライトノベルでは、作者は四割ぐらいの情報しか出さず、残り六割は読者のほうで補えという感じで作られている。


なるほど、と思った。

劇団内で作品の検討をする際に、20代であるわたしと50〜60代以上の先輩とで好みがまったく違うということによく直面するが、それは多分、わたしが、東さん言うところのライトノベル的表現にどっぷりハマっているため(小説にかぎらず、映画も舞台も、ライトノベル的表現が多いのではないか)なのだと思った。


赤木智弘さんに代表される、小さなところで他者を引きずりおろすことを主張する心理について。

<東> 今までは、友達の私生活とか人びとの生活とかはあまり見えなかった。ところがブログとかで、みんながすごく書くようになった。俺はあのレストランに行ったとか、どこを旅行したとか。すごい金持ちは昔からいたけれど、それはある意味では虚構の存在みたいなものなので、彼らが結婚式で何億円使おうが関係ない。ところが、いまや小さな差異こそが見えるようになってしまった。そして、小さい差異のほうが人間の嫉妬を駆り立てるので、こんな話になっちゃった。


この本で度々言及される「公共性」について。

(大塚さんと東さんの認識する公共性は、互いに少しズレがあって時折噛み合わない)

 <東> 問題は、権威というか、固有名が出ている人間が少数で何かを選ぶことへの不信感がすごく強まった、ということです。その不信感自体は正しいんだけど、結果として出てきたのが、名前がない多数が空気を読みあって決めるという、もっとわけのわからない状況。<中略> 大塚さんはそれを批判しますけど、ぼくはそう簡単には言えません。だって、繰り返しますが、もともとの出発点は正しいわけです。少人数で密室で決めるよりも、多人数でオープンに決めたほうがいい。小さなサークルで論壇人がプロレスをやっているよりも、2ちゃんねるでわいわい議論したほうがいい。そういう点では、確実に言説は民主化されているわけです。ただし、そこで、多人数の一人一人は責任をとらないことになってしまった。


安倍政権の提出した憲法草案には、「公益および公の秩序」という言葉がえらく盛り込まれているらしい。 いったい、「公」とはなんだろう。


民間の劇団で働きはじめてから5年間、「公」「公共」という言葉にひどく泣かされてきた。

一民間である以上、わたしたちは営利企業としてみられるし、また実際そうである。

しかしどうも、「こどものための演劇」と「営利」というのは二律背反したものにみえるみたいなのだ。日本では、こどものものというと行政がお金を出すかわりに無料のことも多いからね。

だからなんで、チケット代にこんなにかかるのか、こどものためのものなのに有料なのかと、あたりまえのように思うのだろう。

そりゃ、チケット代が無料になれば今以上のこどもたちと出会うことができるだろうし、お金の心配をせずに生きられるなら誰だってそうしたい。

でもわたしたちは現に仕事をしてお金を稼ぎ、衣食住を整え、将来に備え、少ない稼ぎから税金を払い、そうして生きていかなくてはいけない。

それはわたしたちも、行政で働く人間も、観客も、まったく同じ条件だと思うのだけれど、そんなことには考えの及ばない人間が多くいる。


仕事上大きな関わりのある行政(それこそわたしたちが公演で使用するのは、その大部分が公立ホールなわけで)からは一民間の営利企業だとみなされ、援助はほぼ得られない。

しかし観客の側からは、こどものための演劇をしている劇団だということで、ある程度、公の、行政に近しい存在としてみられる。

いったい、どうしろって言うの? 霞を食って生きろとでも言いたいのだろうかと思うことが度々ある。

そんなことを言ったら袋叩きにあって、おまえの仕事なんて代わりはいくらでもいるし、そんな遊びの延長みたいな仕事で稼ぐなんてけしからんから辞めろと言われるのがオチだろうね。涙が出そう。 


こんなわたしの切実な悩みはさておき、この、「少人数が密室で決める」ことへの反感というのを読んで、フェスティバル/トーキョーのはじまりからプログラムディレクターを務め、演劇祭を世界的なレベルに作り上げるために尽力した相馬千秋さんが、事情を明らかにされないまま突然その任を解かれたという出来事を思い出した。

この出来事はいまでも釈然としないが、当の相馬さんは、芸術公社という団体を起こし、数々のプログラムを企画し、世界中を飛び回って忙しそうに、でも、ますますクリエイティブな活動を続けておられるのだからすごい。


一応、「FTディレクター相馬千秋さんの退任劇をめぐる反応。」と名づけられたツイッターまとめを貼り付けておく。

F/Tディレクター相馬千秋さんの退任劇を巡る反応。|togetter


海外の演劇祭では、そのフェスティバルのプログラムディレクターやそれに準じる役職の人がいて、上演プログラム選定の経緯など明確にわかるようになっている。

もちろん特定の人物やある人たちが決めていて、個人の考えが好みが出やすくなるが、それぞれのプログラムへの意見が観客によって違うのは当然のこととして、特定の人物やある人たちが決めるということに対しての批判ってほとんどないのではないか。

そしてフェスティバル/トーキョーはそのような海外のフェスティバルの運営をよく知る人々が日本に持ち込み実践していたが、行政からの不可解な介入で志が潰えた、というのが部外者からの見え方。

こんな認識で2020年オリンピックをやること、それに付随した文化プログラムを各地で、グローバルにも展開するなんて、そしてそれに目が飛び出しそうなほどの税金が使われるなんて、本当に恐ろしい。 また余談が長くなってしまった。


公共性から派生して、人と人の関係性を大きく変えてきたインターネットの登場と、それがもたらしたものについて。

<東>つまり、現代社会は、社会から切り離されている状態をますます異常だとみなし、それを治療する方向に向かっている。


<大塚> 少なくともあなたは本を書いているんだから、本が届く範囲の中でやっていくべきなんだって、ぼくはずっと言ってるわけ。それからネットの上の言葉も含めて、あなたが発信できるツールの中で、あなたはあなたの言葉の中で、そういったものに対してコミットしていっているわけでしょう。


<東> いや、それはやるわけです。その限りでは信じているとも言える。けれども、真剣に内省するとふと空しくなるのも事実です。評論や思想の言葉が行っているのは、もともと心の強い読者の、その強さを高めているだけではないか。最初から心が弱く、承認を求めて陰々滅々となっているひとを、本だけで変えることがあるのか。


世の中に言葉を送っているのに斜に構えた視点で世の中をみているというそぶりをする東さんに対して、大塚さんは憤っているように文面では読める。

文面を追うかぎりでは、わたしも大塚さんの言うところに賛同するし、東さんは卑怯だと思う。でも、斜に構えたような発言をする東さんが、社会を、人を、信頼できていないように見えて、その姿が自分の本心と重なるようで辛くなる。

じゃあ一体東さんは、どうして、社会に対して言葉を紡ぐのか。 文面を追うだけでは計り知れないところがあるなあ、と思った。


これからも彼らの仕事を追いたいと思う。

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