【新訳】地下室の記録/ドストエフスキー(訳・亀山郁夫)
はてなブログからの転載記事です。
(2017.8.22)
読み返して、最近みて大いに感銘を受けた映画『ジョーカー』を思い出していた。
ジョーカーになる前の「アーサー」は、その惨めな生活を妄想で埋めていた。
テレビのコメディ番組を見ながら、自分がその舞台に立ち、尊敬するコメディアンであるマレーに認められること、たまたまエレベーターで出会った女性と恋愛関係になること――。
その程度の妄想ならば、誰もがやったことがあるだろう(わたしも例外ではなく)。
ただ、加齢による影響や周囲とのある程度満たされたコミュニケーションのうちに、「自分は特別な人間ではない」ということを認識していく。
そうしなければ生きられない、生存本能の一種のようなものだ。
叶いもしない強い妄想から自分自身を救えるのは、自分自身だけ。
『地下室の手記』も『ジョーカー』も、「自分は特別でありたい」と願いながらも、その「叶わなさ」を理解している人にこそ読んでほしい作品だ。
(自分を客観的に直視できない、直視されることを避ける人間には向かない)
ドストエフスキー「地下室の記録」を読んだ。
はっきりいって、みじめたらしい、傲慢で偏屈な男の話だと思った。
そして、これこそわたし自身だ、とも思った。
訳者である亀山郁夫さんがあとがきに書いているように、この男は「意識の病」に蝕まれていて、それこそが彼をみじめにし、傲慢な人間に仕立て上げている。
当時の民衆は、いまのように余暇を楽しむ財政的な余力があり、見かけ上は民主主義が保たれ、人は平等であると信じられている時代とは違う。
自分の好きな仕事に就くなんてことや、自分探し、なんていう言葉が存在することすらない時代に「意識の病」に苛まれることは悲劇だと思う。
現代人の先駆けなんだろう、きっとこの男は。
そういう「意識の病」に苛まれた男の挙動や言動をこの小説は逐一描写しているのだが、人とのコミュニケーションを逐一頭でシミュレーションしては、シミュレーションどおりにはまったくいかない現実にくらくらしているわたしにはとってもよくわかる。
ふつう人は、こんなに頭で考えてばかりいてはおかしくなると思う。
人とのコミュニケーションはシミュレーションのようにうまくいくわけがないし、何より機転が大事なのだ。
だからこの男は人間関係がうまく持てないし、人から馬鹿にされもする。本当に他人事とは思えない。
他人事とは思えないと思いながらも、でも、小説は客観的に読めるものなので、自分のコミュニケーションの不能を棚に上げて、この男はなぜこんな言動をするのか、なぜ人とうまく付き合えないのかと読んでいるあいだはずっと訝っていた。
共感した言葉がいくつかある。
「ああ、諸君、わたしが自分を賢い人間とみなしているのは、これまで何ひとつはじめることをしなければ、何ひとつ終えることもできなかった、ただそのためだけなのかもしれない」
「今となってじつによくわかるのだが、わたし自身、途方もなく虚栄心がつよく、おまけに自分にたいする要求がきつすぎたため、かなりの頻度で、嫌悪を覚えるほどの狂おしい不満をいだきながら自分を見つめ、だれもが自分と同じような見方をしているものと思いこんでいた」
「しかし、わたしにはすべてを和ませてくれるひとつの逃げ道があった。要するに、『美しくて崇高なもの』のなかに逃げ込むのだ。むろん、これは空想のなかでの話である」
わたしにとっての『美しくて崇高なもの』は、もちろん、劇場の客席だ。そこに座って演劇なり映画なりを眺めることが『美しくて崇高なもの』そのものだ。
わたしが演劇や映画を好むのは、『美しくて崇高な』空想の中へ逃避するためなのだと自分でもわかっている。
劇場こそ、わたしにとっての「地下室」だ。
長く人々に読まれているのだから当然なのだけど、なんだこの男はと時に嫌悪しながら、でも、読了感は悪くないというふしぎな小説だった。
迷いの深い闇より
信念に満ちる熱いことばで
堕ちた魂を引きあげたとき、
深い苦しみに満たされたおまえは
両手をもみしだいて、
おのれをからめとる悪を呪った。
もの忘れがちな良心を
追憶のかずかずで鞭うちながら、
わたしに出会うまでの身のうえを
おまえは語ってくれた。
と、ふいに両手で顔をおおうと
溢れる羞恥と恐怖におののきながら
おまえはどっと涙にくれた、
高ぶる怒りに身をふるわせて
……
N・A・ネクラーソフの詩から
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