戦後ドイツの抗議運動 「成熟した市民社会」への模索 /井関正久
戦争責任を曖昧にし、戦中の呪縛から抜けきれないまま現代を迎えた日本と、ナチスを断罪することで曲がりなりにも自国の戦争責任を追及し、いまやヨーロッパのリーダーとして存在感を発揮するドイツ。
第二次大戦の同盟国ということで比較されがちな日本とドイツではあるけれど、戦後の両国の発展、特に市民意識の違いは甚だしい。
両国を比べてドイツを称揚するつもりはないが、ドイツにはドイツの戦後の歩みがあったのだろうということで、それを知りたいとこの本を手に取ってみた。
戦後、日本の政治中枢のほとんどを占めてきたのは自民党であるが、安倍政権は、これまでの自民党政治とも異なるような気がするし、現に、戦前回帰願望を持つとされる日本会議所属議員が多いために、右翼、または極右とも非難される。
(数年前、日本での改憲について「ナチスの手口に学べ」と言って大きな批判を浴びた麻生太郎氏が、最近もまた、「(政治は)結果が大事だ。何百万人殺したヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくても駄目だ」というとんでもない発言をされました。彼は、ユダヤ人絶滅を計画したナチスの動機を正しいと思っているのか)
では、ドイツではどうか。
”「ドイツ刑法典130条」の民衆扇動罪は、ヒトラーやナチスドイツを礼賛したり讃美したりする言動や、ナチス式の敬礼やナチスのシンボルを見せることを禁止している。”そうだが、ナチズムを礼賛するネオナチの存在は有名だし、そのような存在が日本ほど政治中枢にいるわけではないけれど、決して、完璧に押さえ込めているわけではない。
戦後、米英仏ソ四カ国によってナチのシンボルやナチ政権賛美、ナチ思想の普及は犯罪とされ、ドイツでのナチ党再結成は禁止された。
こうした中でも右翼政党と呼ばれる政党がドイツ国内で結成されたが、いずれもナチズムとは一線を画すことを試みたのに対し、1949年10月に結成された「社会主義帝国党」(なぜ社会主義なのかと言うと、驚くことなかれ、一般的にはナチス、ナチ党と呼ばれるが、”国家社会主義ドイツ労働者党”が正式名称なんですね)は、ナチズム支持を公言し、多くの元ナチ党員を党内に抱えていた。
一万人もの党員を抱えた彼らは1951年の州議会選挙で得票率を伸ばし、西ドイツ最初の極右の波をもたらしたが、連邦憲法裁判所によって違憲判決を下され、”社会主義帝国党”は、ドイツ連邦共和国内で禁止された最初の政党となった(判決前に解散)。また、後進政党を結成する試みは、連邦内務省の管轄下にある反憲法的活動を監視する情報機関「憲法擁護庁」の介入により失敗した。
この”憲法擁護庁”、日本にも必要じゃないですかね。憲法遵守義務を負うはずの安倍首相が、憲法をないがしろにし、自らの思いのままに変えようとしている今日では。
しかしそんなドイツでも、1970年代後半以降、憲法擁護庁の連絡員や情報提供者が犯罪行為の発案や促進に関わるケースが見られるようになったとのこと。これは、シュタージを中心とした東ドイツの工作によるものが大きい。
若年層中心のネオナチグループとしては”スキンヘッド”が有名だが、これはもともと1960年代末に英国でサブカルチャーとして生まれた若者集団であり、労働者層の男子青年が中心で、当初は非政治的組織であったが、60年代半ばからネオナチ組織によって政治化され、その一部が極右勢力へ合流したらしい。
この”スキンヘッド”は、東ドイツでは西側よりも10年ほど遅れてシーンとして現れている。
もともと政治的な関心をあまり持たず、特定組織・政党との共同作業を拒む傾向があるため、ネオナチ組織は、スキンヘッドを規律ある行動や組織構造に取り込むことに当初は成功しなかったが、東西統一後の90年代末にはスキンヘッドの一部が変わってくる。このようこのような旧東ドイツ地域における極右の躍進の背景には、多くの若者にとって「右翼イデオロギー」が、反抗すべき親世代のイデオロギーでもあるという側面があった。
これは、世界的に学生運動が盛んになった1960年代、ドイツでのそのピークは1968年だが、他国と比べてより急進的なものとなった西ドイツの「六八年運動」の背景に、ナチ時代を経験した親世代全体に対する戦後第一世代の抗議というドイツ特有の事情があったことと重なって見える。親と子、世代間の溝は、いつの時代も思ったよりも深いのだ。
さらに1990年代初頭、極右が社会問題として取り上げられるようになると、極右を「社会運動」として理解すべきか否かについて激しい論争が展開されるようになる。きっかけとなったのは、政治学者ハンス=ゲルト・ヤシュケの行った「右からの新しい社会運動の形成はあるのか?」という問題提起であった。この問いに自ら「イエス」と答えたヤシュケは、社会運動概念を極右に適用できるとする理由として、右翼思想がセクト的存在を越えて発展した点を挙げる。ヤシュケによれば、ナチズムに固執した60年代のNPDとは異なり、90年代初頭の極右政党は、日常に不満を持つ若い男性を中心に支持基盤を拡大したことがその理由で、彼はここに「右翼の講義の新たなクオリティー」を見出すとともに、サブカルチャーに基づいた90年代の極右に「運動としての要素」を認め、さらに挑発やタブー破り、暴力の美化といったその行動様式もまた、従来のあらゆる青年運動に匹敵するものであり、70年代、80年代の新しい社会運動に続く新たな運動タイプだと説明した。
右翼にかぎらずとも、政治運動は、日常に不満を持つ人間を回収していくという点では全て同じ潮流にあり、過去は繰り返すと言うことですね。ヤシュケによるこの説明は、ネトウヨと呼ばれる安倍政権支持者が増えている現象とも似ているが、ネトウヨは実際の行動に移すよりもネット内での活動が多いことを考えれば、運動体とは呼べる代物ではないのかもしれない。
当然、ヤシュケのように極右を社会運動として解釈することに対しては強い反発も起こり、政党研究者リヒャルト・シュテースは、極右を「右からの抗議」と表現することによって加害者の責任を和らげる結果となるばかりでなく、極右を1960年代、70年代の左翼による抗議運動に対するリアクションとみなすような、右翼に好まれるテーゼへたどり着くと主張した。
事実、極右の根源を左翼運動に求める傾向は特に保守勢力において見られ、「六八年世代」の教師によるリベラルで解放的な教育方針が、児童・生徒の自己中心的態度を助長し、そのことが他者への攻撃性や外国人敵視へと結びついていったとする見解も数多くあった。
ドイツと日本、いや、世界至るところで人々は似た問題に直面している。わたしたちは常によりよい社会形成のために、絶対的な解決のない社会を苦悩しながらも歩んでいかなければならないが、せめてできることは、歴史や他国の状況を学びながら歩んでいくということだ。
最後に、巻末の文章を引用して終わりにしたい。
一見安定しているようで実は膠着してしまっている日本社会とは対極に位置するような社会像がドイツにはある。それは、講義が複雑に重なり合い、運動が錯綜するなかで、より時間と労力をかけてコンセンサスの形成を目指す社会であり、「ダイナミックな市民社会」と呼ぶことができる。市民が積極的に政治にコミットするという意味でより成熟した社会ではあるものの、あらゆる対立が顕在化する不安定で混沌とした社会でもあり、民主主義を形骸化から守るために絶えず奮闘しなければならない、苦悩に満ちた社会でもある。
難民・移民問題をはじめ、ドイツが直面してきた諸問題はやがてグローバル化の波とともに日本にも押し寄せてくるであろう。現在のように政治が市民の日常から剥離した状態のままでは、こうした問題に立ち向かうことはできない。それゆえ、戦後ドイツが辿ったような、さまざまな講義がひしめき合い、強い世論を形成しながら政治を動かしていく社会のあり方は、日本社会がこれから進むべき方向を考えるうえで示唆に富んでいるといえよう。
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民主主義に完成はないと誰かが言っていた言葉を、胸に留めている。
この本は2016年に出版されたものだが、外国人労働者受け入れ拡大のための入管法改正が、2019年春成立目標として早急に動いていることを考えれば、内容がぐっと身近に迫ってきていることを感じざるを得ない。
とにかく、議論が必要なのだ。
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