若者よマルクスを読もうII 蘇るマルクス /内田樹×石川康宏

図書館で目に留まったので、Iを読んでいないにもかからわずいきなりIIを読んだ。

ちなみに最近、ⅲが出版されました。

マルクスっていうと髭もじゃでいかつい顔をしたあの有名な写真がまず思い出される。

家には父の所蔵であるカビの生えた「資本論」があるけれど、少しページを眺めただけでとても難解な内容であることだけは瞬時に理解できてしまうので、カビが生えていようといなかろうと、手に取る気は全く起こらない。

そんな、マルクス=資本論=むずかしいというイメージを覆し、「人間マルクス」に興味を掻き立てられたのが今年公開された映画「マルクス・エンゲルス」であり(ところでこの映画の原題は“The Young Karl Marx”なのだが、邦題も原題に準じてほしかった)、この本だった。

▽映画予告

共著者である内田樹氏と石川康宏氏のコンビというのは神戸女学院で同時期に教鞭をとられていたこともあって一部界隈ではおなじみだが、この2人には明確な違いがある。

それは本書で内田氏が表明しているとおり、「マルクシスト」と「マルクシアン」の違いである(この定義づけは内田氏の師匠であるエマニュエル・レヴィナス氏によるもの)。

ちなみに前者の「マルクシスト」は石川氏のことで、「マルクスの思想をマルクスの用語を使って語る人」。

後者の「マルクシアン」は内田氏のことで、「マルクスの思想をマルクスの用語ではなく、自分の言葉を使って語る人」のことなのだそうだ。

自分はどちらかななんていまはまだ考える余地もないが(どちらにも当てはまらない)、ただ、どちらにも共通することは「マルクスの思想を理解していること」、理解した上で、マルクスの用語を使って語るか、自分が馴染んできた言葉でマルクスの思想を語るか。この違いでしかない。

その流れで内田氏は、「マルクスの思想をマルクスの用語ではなく、自分の言葉を使って語る人」である自分の選択について、「日々、生身の人間として生きているときの具体的なふるまいの一つひとつそれ自体がすでに政治的である。僕はそう考えています。政治と生活を切り離すことはできないし、生活と切り離すことのできる政治は空疎な観念に。そんな脆いものに現実変革の力はない」「生活言語に置き換えることのできない政治言語は脆い」と語り、かつての学生運動を総括している。


また、この本のまえがきで、「マルクスの全著作どころか草稿までも翻訳されており、それについての膨大な研究書があり、かつマルクスの思想の実現を掲げる政党が国会に議席をもっている。そんな国は世界中を眺め回しても、もう日本とフランスくらいしかありません」「それは言い換えると、マルクス研究と、その理論の現実化については、僕たち日本人だけにしかできない仕事があるかもしれない」と内田氏は述べつつ、マルクスが読まれなくなる過程を「日本では八〇年代の変化が急速だったと思います。本屋さんから本がなくなるし、いわゆる論壇でもマルクスに関するいろいろな言及がなくなっていく。これは七〇年代半ばからの、かなり大がかりな支配層の側からする社会改革の一環だったと思います」と振り返る(もちろん、その流れにベルリンの壁崩壊とソ連崩壊が大きな影響を及ぼしているとも記述している)。

九〇年代には、「マルクスはもう古い、マルクスの思想的、歴史的生命力は切れたという時代の空気が一挙に強くなりました。ところが、それは、マルクスの思想の再検討を伴うものではなかったのです。(中略)だから僕は、ちょっと待ってくれよ、ソ連の実験はマルクスの思想じゃなく、スターリンの思想の実験だろうと思っていました」と、気分の思い時代だったと24〜5年前を述懐する。


よく「マルクス主義」だの「マルクス・レーニン主義」だのと言われるが、自分の名を冠した主義を作ろうなんてマルクス自身にはそんな欲はなかった。また、スターリン自身はレーニンの人気を自分の覇権づくりに利用していただけに過ぎず、ソ連=共産主義国家であるという捉え方はいまでは全く当たらない。ソ連は共産主義国家などではなく、スターリン主義、帝国主義、覇権主義の国家であった。スターリンは自身の権威づけのために、マルクスやレーニンといった巨人や「共産主義」を利用したに過ぎない。


その後、いまにつながる社会の流れを内田氏は、「マルクスにかわって人間社会の未来を語るまとまった社会思想として何が登場したかというと、何も出てきませんでした。マルクスの相対化を試みるものはあっても、社会の未来には口をつぐむものばかりでした。つまり社会についての思想が資本主義の枠内にとどまるものに矮小化されてしまった。そのなかで、どんどん大きくなったのが、資本主義は勝利した、資本主義万歳という声でした。社会主義がダメなんだから資本主義の勝利だ、あっちが潰れたんだからこっちが勝ったんだという単純な議論でした」とまとめている。

そもそも、マルクスは資本主義と歴史を徹底的に研究することで「資本主義の発展の先に共産・社会主義の未来を見た」だけで、資本主義そのものを否定してはいない。ただ、資本主義が己の資本の拡大を至上命題とするものであるかぎり、人類や社会の成熟によってゆくゆくは淘汰される(もしくは形を変えていく)であろう未来を見ただけなのだ。

そんなことはない、資本主義の社会は未来永劫続くものだと漠然と考えている人に問いたいのだけれど、では人類史の中で、これまで形を変えずに生き残ってきたモノはあるだろうか。ざっくりとしたものだけでも、映画「2001年宇宙の旅」にも登場する原始共産制の社会から、奴隷制、封建制、資本制と、社会は人類史や科学技術の発展とともに姿を変えてきた。姿を変えながら、少しずつよりよい未来を形作ってきた。

資本の増大を至上命題にした資本主義は、昨今特に問題として現れているように、働く人間をまるでただの「労働力」として捉え、長時間労働に従事させ、壊れたらまるで機械のように掃いて捨てるようになる。

マルクスの生きた産業革命直後のイギリスは特にひどく、児童労働が蔓延し、多くの労働者が命を落とした。その一方で、以前より大量生産が可能になった工場経営者は私腹を肥やしていく。

そんな社会状況を目の当たりにしながら、人類史と資本主義を徹底的に研究したマルクスがたどり着いた答えが、「どんな社会体制にもいつか終わりが来る。その次には、以前よりもいくらかマシな社会が立ち現れる」、つまり「利益追求を至上命題とする資本主義に対して労働者自身が立ち上がり、人間が人間らしく生きられる社会がやがて到来する」、マルクスは、人類史の徹底的な研究の末に確信を持って予見した未来を「社会・共産主義社会」と名付けたのである。

「マルクスは革命だけでなく、資本主義の改良にも熱心でした。議会をつうじた労働時間の制限が必要だとか、労働組合を育てるとか、労働者の発達には労働時間短縮が必要だとか、言論や出版の自由の獲得とか、いろんなことを主張しました」と内田氏が述べているが、これを読んで、ハッとしませんか?ーいまの世の中は、資本主義が改良された社会であると(いまも、ヨーロッパ、特に北欧等の福祉先進国は「北欧型社会主義国家」とも言われている)。

マルクスが言うまでもなく、目に見えるスピードではなくても、労働者(人類)自身が、自身の手でその権利を勝ち取ってきたのがいまに至る人類の歴史なのだ。


では、資本主義から社会主義へ移行するためのマルクス流の「革命論」とは何かということを石川康宏氏が説明している。

「衣食住を満たすための「生活手段」ではなく、それらを生み出す「生産手段」の社会的なポジションを変える必要があるということです(※「生産手段の社会化」)。生産手段というのは、具体的には工場や原材料や建物や、いまでいえば通販のためのインターネットの設備などのことですが、資本主義ではこれが、個々の資本家の所有物になっており、儲けを生み出す手段とされています。マルクスは、そこに労働者の貧困や周期的な経済恐慌などの根本的な原因を見て、これを社会全体で所有する「公共財」に転換し、社会全体の福利を充実させる手段にしようとしました。これがマルクスの経済革命論の骨格です。それは相対立する階級に分裂した人間社会に、いかにして「共同性」を回復させるかと言う探求の結果でもありました」


ちなみに、「生産手段の社会化」を通して人間(資本家)による人間(労働者)からの搾取を取り除くという文言は、日本共産党綱領にも明記されている(第5章15項)。

これを言うとまた、ソ連のような国有化とか集団農場(コルホーズ)を目指しているのかと言われるが、決してそうではなく、「生産手段」、つまり、現在は資本家に独占されており、かつ、儲けを生み出すための手段となっている「商品を生み出すための道具」を社会化する、労働者自身の持ち物にするということ。

まわりくどい言い方のように思えるのでなかなか納得はできないかもしれないが、簡単に言うと、いまで言う「協同組合」がこの形態に最も近く、「規模の小さい株式会社・有限会社」もこれに近い形だと思われる。

「株式会社」も、もともとはその企業の所在する地域に住まう人たちが株主の大半だったはずだ。となれば、企業に対しての株主の要求は、地域に根ざしたものになる。しかし現在のグローバル経済においては、株主の大半は海外に住む人間だということも多い。そうなれば企業に対しての株主の要求は利潤の追求一辺倒となり、企業の社会貢献などといった儲けにならない活動は二の次三の次ということになる。働く従業員の権利など、微塵も考えるときはないのかもしれない。

この動きに少しでも対抗する手段、そもそも、「労働によって利益を生み出している」労働者自身にその「生み出された利益」を還元する手段を、「生産手段の社会化」という言葉で表現しているのだ。

なお、あくまでもマルクスは「生産手段の社会化」によって資本家を打倒しようなどと考えていたわけではなく、「「両者の相互関係」つまり労使関係を「廃止」し、次の新しい関係を築く」こと、「「生産手段の社会化」は新しい関係を築く手法の中心に位置づけられているわけです」と石川氏は説いている。


「生活手段」と「生産手段」について、「資本家」と「労働者」の絶えざる闘いとは?石川氏によると、「資本家は賃金をその生理的最低限に引き下げ、労働日をその心理的最大限にのばそうとたえずつとめているし、他方、労働者のほうはこれと反対の方向にたえず圧力を加える」ことになる。事態は、結局、闘争者たちのそれぞれの力の問題に帰着する」とマルクスを引用する。

つまり、資本家は賃金を「労働者が死なない最低限」にまで引き下げようと務めるし、労働日を「労働者が死なない最大限」にまで引き伸ばしたいと思う性質を持つということ。長時間労働・残業代なし、いくらでも具体例が思い浮かぶ。

ここで重要なことが、「事態は、結局、闘争者たちのそれぞれの力の問題に帰着する」と説かれていることだ。「生活手段」と「生産手段」、そのどちらをも持つ権利を持たず、ただ生身の肉体を労働力として資本家に提供している労働者は、果たして、資本家と対等に争うことができるのだろうか?

この労使の歪な関係を解消するための理論が、「生産手段の社会化」なのだ。


「諸商品の相対的価値は、それらの中に支出され実現され凝固している労働の個々の量ないし分量によって規定されるのである。同じ労働時間で生産される諸商品相互の[価値]量は等しい」というのがマルクスの労働価値説であるが、これを内田氏は「人間の生身の身体が価値の本質的源泉である」と説く。

内田氏は合気道の実践を通してマルクスの「労働価値説」を体感したのだという。

「労働者と資本家がゼロサム的に奪い合っているのは「利潤」の配分率ですが、それは具体的には時間です。利潤をめぐる戦いの本質的な賭け金は時間なのです」とマルクスは解き明かし、このことから、人間にとってもっとも貴重な財産は「自由に使える時間」なのだと断言する。

マルクスの言葉を引用すると、「時間は人間の発達の場である。いかなる自由な時間も持たない者、睡眠や食事などによる単なる生理的中断を除いて、その全生涯が資本家のための労働に吸い取られている人間は、役畜にも劣る。彼は単に他人の富を生産するための機械にすぎないのであり、体は壊され、心は荒れ果てる。だが、近代産業の全歴史が示しているように、資本は、阻止されないかぎり、しゃにむに休むことなく労働者階級全体をまさにこのような最大限の荒廃状態に投げ込むことだろう」ということだ。なんと、現代人にも共感できる言葉だろうか(マルクスの生きた時代から200年経ってもこの言葉に共感するということは、社会が本質的に変わっていないことを意味するわけだが)。


そしてこの言葉を翻して言うと、「自由な時間」こそが人間を飛躍的に成長させる。そんな突拍子のない意見を、と思う向きもあるかもしれないけれど、生きるために日夜狩りに励んでいた時代から穀物を育て定住する時代になり、余剰が生まれ、貨幣の創造によって交換が容易になり、科学技術が飛躍的に発展し…と、人類はこの歴史の変遷で、「自由な時間」を手に入れてきたのだ。そのことによって、社会がここに至るまで発展を遂げてきたのだ。

マルクスはそのような社会を人類の本史と呼び、いまに至る歴史を人類の前史であると説いた。

共産党は、マルクスのこの「未来社会」論を綱領に組み込み、日本の未来像としている。


最後に、マルクス自身の言葉と内田氏による言葉を引用して終わりにしたい。

「マルクスは「命がけの跳躍」(salto mortale)という言葉を使いますね。「ここがロドスだ、ここで跳べ」(hic Rhodus, hic salta!)というのもあります。この「跳ぶ」という動詞へのこだわりは、やはりマルクスの個性じゃないかと思います。マルクス自身が推論しているときの身体実感が「跳ぶ」という言葉を選ばせてるんじゃないでしょうか。

だから、僕が「いいから黙ってマルクスを読みなさい」と若い人たちに言うのは、「マルクスが正しいことを言っている」からじゃないんです。端的にマルクスを読むと「跳ぶ」というのがどういう感じがわかるからなんです」


「ここがロドスだ、ここで跳べ」(hic Rhodus, hic salta!)

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